80年代、相似 形のオンナ達 (浅野ゆう子・川島なお美・桂木文・斉藤とも子)


同郷同学年の2組が辿った軌跡

1960年(昭和35年)生まれの人達と1961年(昭和36年)の早生まれ(1〜3月生まれ)の人達は、 

義務教育を通じて同じ学年に所属することになる。 

この当たり前の教育制度に則って同じ学年に所属する2組の女性達が、その後の芸能界で 

相似形の奇妙な対比を見せることになった。

 

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浅野ゆう子 1960 年7月生まれ 
(兵庫県・神戸市出身)

川島なお美 1960 年11月生まれ 
(愛知県・名古屋市出身 )

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桂木文 1960 年12月生まれ 
(愛知県・名古屋市出身)   

斉藤とも子 1961 年3月生まれ 
(兵庫県・神戸市出身) 

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先の一組は今もブラウン管で活躍中であり、そして後の一組は滅多に姿を見せなくなった..........

しかしながら、桂木文は78年にあの人気番組「ムー一族」で、人気絶頂アイドル郷ひろみと共演という華々しさでデビュー し、

一躍お茶の間の注目を浴びている。 

また、斉藤とも子(当時:友子)はこれまたNHKの人気番組"少年ドラマシリーズ"「明日への追跡」(76年)で主人公の

ガールフレンド役としてデビュー。可憐な女子高生姿がたちまち人気となった。 

 

では、その後の2人の顛末を駆け足でザッと追ってみよう。

 

 

清純派女学生 『 斉藤 友子 』

 

さて、斉藤友子(→とも子に改名)だが、お堅いNHKで純粋な少年達相手にえくぼも可憐に新鮮なデビューを飾る。

この高校1年デビューの2年後の高校3年(78年)時には、同じくNHKの「若い広場」(苦笑)のコーナーにおいて

知的で清純を絵に描いたようなルックスと立ち居振舞いから、いわゆるアイドル歌手やグラビア系アイドルとは画然とした

別種のカテゴリーに分類されることとなった。

 

どこにでもいるような、それでいていそうでいない、ある種の奇跡を感じさせる特異なキャラクター。

とびきり美人でもなければ、もちろんアイドルの王道という顔でもないものの、知的で清楚な可愛らしさを併せ持つ

理想形の優等生がテレビのブラウン管に突然舞い降りたような錯覚をひき起こしたのである。

結果、セーラー服が自然に似合う代表格として、特にマ ジメな男子高校生達からの絶大な支持を集めた。

なにしろ実生活が役所付きの医者の娘にして、母を早くにガンで亡くし、芸能活動のかたわら妹の世話も見る母親代わり。

ガン闘病ドラマを見て感動し、一念発起して役者を目指して上京。そして愛読書がドストエフスキーとくれば、NHKならずとも

その生い立ちに俄然注目が集まる。

 

そんな彼女には当然のごとく、そのイメージを裏切らない配役がまわってくる。

日テレの学園ドラマ「青春ド真中!」(78年)では、現実に高校3年生だった斉藤には無理のない勉強一筋の受験優等生「宮本典江」役をリアルタイムで演じ、

キャストがほとんど変わらないままの続編ともいえる「ゆ うひが丘の総理大臣」 (78年)でも、

キャラクターはそのままに岡田君子役で受験一辺倒の優等生ぶりに磨きをかける。

そんな彼女の優等生イメージにスポットがあたる一方、当時、山口百恵主演で大人気の大映 テレビ制作「赤いシリーズ」の

後継番組「薔薇海峡」(78年)では、同時進行で宇津井健の娘役という、ポスト百恵級の破格の扱いを受ける。

 

さらに映画では78年「金田一耕助の冒険」で金田一に想いを寄せる少女を、79年には「悪魔が来たりて笛を吹く」で主役級の抜擢。

同じく79年の「わが青春のイレブン」では兄をショッキングな事件で失いながらも、なお他人を思いやる健気な少女を。

また、デビュー時のイメージを決定づけたNHKでは、大御所の鶴田浩二との共演で、身障者の車椅子の少女役を熱演。

そして82年の「ひめゆりの塔」では悲劇のひめゆり部隊の女学生という、「清純・薄幸・健気な高校生」というキャラクターが、

高校を卒業して20歳を過ぎてもなおついてまわった。

 

そんな斉藤とも子だが、石森章太郎の漫画原作「レッドビッキーズ」の第2シリーズで主役をつとめた事実は意外と知られていない。

「レッドビッキーズ」は70年代アイドルだった「林 寛子」が78年に主演して好評を博したため、続編(80年〜81年)が作られ、

斉藤がその主役を引き継いだが、少 年達に野球を教えるユニフォーム姿の斉藤は完全に違和感に満ちていた

バリバリアイドルでちょっぴり姉御肌の林とは対極に位置している斉藤の、「明るいが地味」な性格を不自然に際立たせるだけであった。

 

斉藤のキャラクターは、70年代後期にリアルタイムで素のままに演じることのできた高校生役や、横溝正史原作の古き日本や、

大映ドラマならではの時代錯誤な雰囲気の中でこそ活かされたが、80年代に突入するやたちまち輝きを失い、古色蒼然たる姿が、

どこか時代に取り残された悲劇を招いていた。

例えば82年の映画「ヘリウッド」出演では、カルトムービーが笑って看過されたお気楽な80年代にあっても、やはりセーラー服を着せられてしまう

21歳の斉藤の滑稽ぶりは泣けたし、「もういいよ」という声が聞かれた。

 

確かに斉藤とも子は遅れてきた70年代女優であった。いや、むしろ60年代の吉永小百合的ですらある。70年代は既に映画からテレビへ と

主役が移行完了した時代であり、特にテレビと共に歌謡曲アイドルが急速に主役にのし上がり、"TVアイドルが余技で映画出演"という

80年代へと変わりつつあった。そんな斉藤が80年代中盤にはすっかり忘れ去られたのも当然の成り行きだった。

 

ところが.........である。その斉藤がバブル期に突入した1987年、なぜか一気に日本中のマスコミの注目を浴びる存在となっ た。

なんと27歳年上(!)の漫才師(と言うより上方喜劇俳優)・芦屋小雁と結婚という、誰もが耳を疑う驚天動地の怪挙に出たのである。

これで小雁がナイス・ミドルであったならばまだしも、この風貌。 兄は「裸の大将」の山下清でおなじみの芦屋雁之助である。

小雁はこの時すでに54歳の立派なオヤジ.......というか彼女の親父と同じ世代のはずだ。時に斉藤は26歳。

いったい彼女の中に何が起きたのか、清純な女子高生イメージで時間の止まっていた斉藤ファンは皆、まさしく天を仰いだ。

だがしかし、納得のゆく答えなど見つかるはずもなく、その純真無垢な彼女の表情から、精神状態に異常をきたしたのであろう

という「イッちゃってる」説、あるいは強度のファザコン説(父子家庭だった)、果ては「中年・チビ・デブ」フェチという性癖説まで、

誰もがヤリ場の無い怒りを紛らわせようと必死だった(苦笑)

 

ちなみに彼女のデビュー直後の映画出演作品を見ると、古谷一行(17歳年上)といい、西田敏行(14歳年上)といい、

絡む主役は一周り以上も年上の30過ぎの遅咲きタイプのオジサン俳優であり、やはり父子家庭という育った環境も深く起因しているに違い ない。

さらに斉藤は、この小雁との間に子供をもうけたのだから、世間は呆れるというよりも小雁を呪った。

 

ところが、95年には当然と言うべきか遅すぎると言うべきか、離婚に至る。その後はシングルマザーながらに、役者活動で挫折(高校中 退)した

大学への夢を胸に受験勉強を開始。38歳で大学院に入学し、社会学を専攻。在学中に原爆問題を扱う舞台に出演したことから、

卒業後は原爆被爆者の胎児に発症する小頭症の救済を訴える運動に尽力するなど、元来の生真面目さを発揮し始める。

そして、2004年には「草の乱」で20年ぶりにスクリーンに復帰。秩父事件を主題とした自主映画という社会派路線まっしぐら。

やはり明治時代という時代背景が彼女には違和感なく、ようやく居場所を見つけたかのような安堵感さえ感じられる。

 

 

ラブコメアイドル 『 桂木 文 』

 

そして桂木文である。

80年フジテレビ「翔んだカップル」主演。だが、カップルとは言っても中心はどう見ても桂木であった。

相手役の芦川誠は今ひとつ精彩に欠け、むしろ轟二郎や柳沢慎吾のハジケぶりが強烈に記憶に残った作品であり、

「アイドル×お笑い×NG集」と80年代的要素が凝縮されたさきがけの番組である。

これが世間では彼女の代表作であり、またピークでもあった。

高校生役を20歳で演じたのだから無理もないが(轟二郎はなんと当時26歳であった・笑)。

 

翌81年の写真集「ひと粒」で早くもヌードを披露。続く82年「ひとりぼっちのコンチェルト」でも再びヌード。

その後はテレビで主役を張ることもなくなったが、CXの「月曜ドラマランド」(83年、84年)などに単発ながらも出演。

人気はそれほど衰えることもなく、80年代前半はもっぱら写真誌のグラビアを控えめなプチヌードで飾っていた。

また「翔んだカップル」と言えばこの人、薬師丸ひろ子版映画(1980)の監督を務めた相米慎二が、同名作品の縁からか、

監督を担当した「愛しい女」のジャケット写真は、スレンダーを通り越したあばら骨に、むしろ痛々しさを感じさせるものだった。

 

そしてついにその日が来た。85年の落語家・林家しん平との結婚である。

桂木は既に25歳。人気は下降線だったとはいえ、「翔んだカップル」主演当時の高校生や大学生ファンから、その後も根強い人気があり、

華奢な体とアイドル然とした顔立ちから、「なぜチンピラ風情の有名でもない落語家に!」というちょっとした衝撃が走った。

だが、衝撃はそのわずか半年後の夫婦揃っての奇怪な離婚会見で増幅されることとなった。今も謎を呼ぶスピード結婚&離婚劇である。

 

ちなみに相米慎二監督作品と言えばやはり薬師丸ひろ子主演の「セーラー服と機関銃」(1981)が有名だが、

元・夫の林家しん平も柳沢慎吾と共に同作品に出演していることから、出会いへの発端はどうやらこの辺りにありそうだ。

当時は桂木の情緒不安定からの拒食症が生理不順を招いての夫婦不和ではないかと噂された。

しかしその相米慎二監督も若くして癌に倒れ、この世にない。

 

こうして離婚後は表舞台から消えた彼女だが、久々のテレビ出演が巡ってくる。それがフジの「アリエスの乙女たち」(1987)である。

これまた80年代を代表する大映テレビの制作だが、こちらは当時「スケバン刑事」放映終了直後で人気絶頂の南野陽子主演。

そこで桂木に与えられたのは中尾彬にベッドで抱かれる若き愛人役であり、挙句に中尾と渓谷に投身自殺し死体で発見という

見事なまでのヨゴレっぷりな配役だった。もはや彼女の立ち位置たるや明白であった。

そしてあまたの例にもれず、彼女もまたお約束のパターンに堕ちていったのである。

 

そんな桂木も83年には、人気グラビア誌「GORO」の表紙を、奇しくも同じ名古屋出身の同学年、川島なお美と共に

当代きってのアイドル達と競っていたのだから、運命の悲哀を感じずにはいら れない。

 

斉藤にせよ桂木にせよ、2人に共通しているのは、斉藤がいつまでも70年代的な「清純」という言葉を信じることができた時代の女子学生 のイメージを、

また桂木がいつまでもブレザー姿のまだどこかスレ切ってはいない、能天気な80年代初頭の明るい女子高校生のイメージを、

それぞれデビュー時に強烈にブラウン管から発してしまったことにある。

それが、その後の彼女達の顛末においてイメージのギャップとして衝撃を倍加させたのである。

特に桂木の場合は柳澤きみおの80年代ラブコメ風味を、映画版の薬師丸よりも遥かにマンガチックに80年代風に体現しており、

「翔んだカップル」エンディングに使われたH2O「僕らのダイアリー」の、「♪キスの味はレモン パイ♪」という来生えつこの胸キュン(死語)な歌詞が、

弟の来生たかおの爽やかなメロディーと相まって当時の視聴者の脳裏にいつまでもリフレインされていたからではないだろうか。

(元・夫の林家しん平が出演していた薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」映画主題歌もまた、来生姉弟によるものである)

 

尚、桂木の元・夫の林家しん平は、落語家と言うよりも怪獣映画オタクとして有名であり、映画出演だけでなく自らメガホンをとって

怪獣映画を自主製作するほどのフリークであり、怪獣フィギアの収集家としても知られる。

そして、斉藤の元・夫の芦屋小雁もまた、フリーク中のフリークであり、ホラー映画収集家であった。

これもまた奇妙な符号ではある。

 

 

女子大生アイドル 『 川島 なお美 』

 

一方の川島なお美は、高校は地元進学校に合格し、大学は青山学院へ入学。大学デビュー(79年)という

アイドルとしては遅きに失するタイミングだが、時代は彼女に味方した。

いわゆる「女子大生ブーム」である。

 

もともと女優志願だったという彼女だが、「まずはアイドル歌手でデビュー」というのが当時の慣例である。

彼女に与えられたデビュー曲は「シャンペンNo.5」という、クリスタルな黄金発泡酒にシャネルのイメージ を掛け合わせた、

陳腐きわまりないタイトルもさることながら、ジャケ写にはジョギング・パンツからナマ足を伸ばし、なぜかスタジャンを羽織って、

ファラフォーセットばりのレイヤードヘアーをキャップに包み、半開きの口元と甘えるような目つきがステロタイプな、

当時のナウい(死語)「女子大生」イメージをそのまま投射していた。

 

これには当時の時代背景があった。79年当時の「宝島」誌上で連載されていた下森真澄と宮村優子による女子大生告白トークが人気を集め、

女子大生=インテリという図式が、女子大生とは実はカジュアルに性を楽しんでいるイマドキのギャル(死語)達であったという事実に、

男子学生のみならず、世のオジサン族も巻き込んで、かくして「女子大生」とは最高学府に遊ぶ知的で痴的な生き物だったという実態暴露が

下世話なセンセーションを巻き起こしていたのである。

(この連載は単行本「ANO-ANO(アノアノ)」として80年に出版され、異例のベストセラーと なり、余勢を駆って映画化までされた)

 

しかも、前年の78年には、あのサザンオールスターズがメジャー・デビュー。彼らは青山学院大学の現役学生バンドであり、

ジョギングスタイルでステージに立ち、支離滅裂な日本語を絶叫する桑田圭祐の姿が 強烈に全国のお茶の間を賑わしていた。

そして79年3月にはサザン最高のヒット曲「いとしのエリー」がリリースされたばかりとあって、まだ教養課程が「厚木」などという僻地 に

移転されるはるか以前の、青学が「青山」学院たるステイタスを誇示できていた時代である。

サザンのメンバーがかろうじて在籍していたこともあり、川島はサザンと共に青学の顔となってゆく。

 

ところが、川島なお美の電波メディアへの露出は、彼女はビジュアルが売りであったにもかかわらず、いきなりラジオ、

しかもニッポン放送の看板番組「オールナイト・ニッポン」の、こともあろうに笑福亭鶴光のアシスタントというものであった。

鶴光のオールナイトと言えば、今もリクルートの「フロムA」のTVCFで聞くことのできる「エエのんか〜〜」などでも想像の通り、

ねちっこい変態ぶりを隠そうともしないエロ全開セクハラ満載のトークで、74年スタート当初から受験生達の劣情を刺激してやまない

圧倒的な人気を誇っていた。

そんな鶴光オールナイトである。しかし、川島なお美の、見た目は可愛いけれどそんなセクハラも受け流す、あくまでもライトなノリが幸い し、

そしてグラビアアイドルで現役青学女子大生というブランドが、さらにラジオという密室深夜の音声メディアゆえの妄想をスパークさせた。

(ちなみに翌80年には、週刊プレイボーイとならぶ大学生向けグラビアヌード雑誌の「平凡パンチ」が提供する、同じくニッポン放送の

深夜H番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」に、松田聖子がパンチガールの一員として歌手デビューとほぼ同時にレギュラー出演している)

 

「アイドル歌手からマルチに活躍」という定石通りにはいかず(同時期デビューの松田聖子はその王道をゆく)、歌は出すものの

どれもパッとしなかった川島だが、もともと歌に執着の無い彼女は気にもとめずにいたところ、なんと当時大ブレイクの「たのきん」トリオ の

マッチこと近藤真彦とのテレビ共演が実現。80年スタートの「ただいま放課後」(CX)がそれである。

そしてここで同郷同学年の桂木文とのニアミスが発生するのであった。

 

「ただいま放課後」はTBS「金八先生」第1シリーズ(79-80年)放映終了直後に、同番組に出演していた田原俊彦・近藤真彦・野村 義男の

いわゆる「たのきん」トリオが、そのまま主役に配された番組だった。彼らは陸上部の部員という設定だったが、そこで部のマネージャー役 として

ゲスト出演したのが、同じフジテレビで「翔んだカップル」主役出演中だった桂木である。

番組乗り入れの面白さと番宣を狙ったものだと思われるが、桂木の人気の高さを物語っているとも言えよう。

そして、「ただいま放課後」は第1クール終了後も放映が継続し、第 2クールは近藤真彦を残して設定がバスケ部へと変わる。

そこにバスケ部マネージャーとして登場するのが川島だったのである。

 

しかし、川島のテレビレギュラーは続かず、チラリズムの水着グラビアなどで現役女子大生アイドルとしての命脈をなんと か保っていた。

ところがそこへなんとまたカミカゼが吹くことになったのだから強運である。現・長野県知事の田中康夫が一橋大学在学中に執筆し、

80年の10月に「文芸」新人賞を受賞した「なんとなくクリスタル」が81年3月に上梓されるや、たちまち大ベストセラーになったので ある。

内容は女子大生の主人公が飽食時代の東京で、オシャレなファッション・グルメ・音楽に浸りながら自由な恋愛スタイルと共に過ごす

アンニュイな日常を淡々と描き、しかも作品に登場する店やアイテムは実在のもので、それらに数百にものぼる注釈を付けたことで

「ブランドカタログ小説」と呼ばれて賛否両論の大きな話題を呼んだ。

女子大生ブーム第2波の到来である。

 

川島なお美はまたもや女子大生を代表するアイドルとして浮上した。

ちなみに80年には女子大生アイドルの先輩ライバルとして、ミノルタ「X-7」のTVCFで現役 女子大生がビキニに脱衣中を覗き見る映像

全国に衝撃を与えた宮崎美子(熊本大学法学部在籍)がいたが、あまりにも豊満で健康的、かつ、あまりにも常識的であったがゆえに、

世間の好感度こそ高かったものの、エッチな軽さを女子大生に求めていた当時の空気からは物足りなさも感じさせていた。

しかも「なんクリ」発売の81年3月には宮崎が大学卒業を迎えていたために、女子大生アイドルの地位は川島の天下と言えた。

(女優やタレントを表紙に起用していた「週刊朝日」が、まさに80年から「女子大生シリーズ」として素人の女子大生を毎週起用し始め た。

撮影は大御所の篠山紀信だったが、その第1号となったのが宮崎美子であり、遅れること2年、82年の4年生の夏に川島なお美も表紙を飾る

 

その81年の夏、80年代を牽引するフジテレビの局宣伝キャッチコピーは「テレビカルサマー8 チャンネル(トロピカルサマーのもじりであろう)」。

そして、イメージキャラクターは川島なお美が起用された

(女子大生+CXの「オールナイトフジ」はその2年後にスタートする・後述)

 

そして、「なんとなくクリスタル」から半年後の81年10月に、今や伝説となったラジオ(文化放送)番組「ミ スDJリクエストパレード」がスタートする。

「ミスDJ リクエストパレード」とは、平日の週5日間を女子大生達が曜日変わりでパーソナリティーをつとめるというベルト番組であり、当時としては

画期的な試みであった。その火曜日担当として川島なお美はレギュラーを確保する。他の曜日が素人女子大生からの公募であっただけに、

番組の広告塔として彼女に白羽の矢が立ったことは自然の成り行きであった。

 

そしてここで、素人女子大生から強力なライバル千倉真理(成城大学1年生)が出現するが、「成城」という毛並みの良さに加え、

千倉がルンルン(死語)でキャピキャピ(死語)な80年代女子大生の典型であったがゆえに、川島とのキャラクター的なバッティングはな く、

むしろ対照的な2人としてそれぞれに強力なファンを掴んでいったのは川島にとって幸いだった。

 

なにしろ当時の女子大生が発する言葉はわずか数種類と言われ、「エーッ!やっだーっ!ウッソー!ホントにぃー?」「カーワユイ♪」だけ で

事足りると信じられていたし、松田聖子の「ブリッコ」が嫌悪されながらもマナーとして定着し、上記の言葉を発する際には、両手をアゴの 下に

添えて小首を傾げ、笑顔でオトコを上目遣いというのが作法であったから、ラジオの向こうから流れてくる声に、全国の高校生男子は理想の

ブリッコお姉さんを重ね合わせていた。その中でも唯一既に顔と体が全国区だった川島は、ちょっぴりエッチな可愛いお姉さんとして人気が 沸騰した。

 

同時期の川島は、やはりテレビではエッチで可愛い女子大生という面のみがクローズアップされ、「アイアイゲーム」(フジ)ではオヤジ司 会者

山城新伍のアシスタントを、そして、同じ事務所の秋ひとみも出演していたことでの「ゲラゲラ45」(朝日放送)や「お笑いマンガ道場」 (中京テレビ)

では有名な「だん吉なお美のおまけコーナー」が今でも語り草になるほどの、テレビメディアでは人気に比して本人的には不遇であった。

 

そんな大人気を呼んだ「ミスDJリクエストパレード」だったが、83年3月に川島は文字通り大学を卒業することで、いよいよこの番組か らも卒業する。

(ちなみに川島の後を引き継いだのは宮崎美子の後輩にあたり、後にタレントとして活躍する熊本大学教育学部 の斉藤慶子であった)

但し、川島は卒業前のカンニング事件が発覚してしまい騒動になったが、そのいきさつも含め、83年2月にはエッセー集「シャワーのあと で」を出版する。

カンニング事件にも悪びれず、そのアッケラカンとした、あくまでも軽いノリが嘲笑されつつも、その一方では「いかにも今ドキの女子大生 だね」などという、

よくわからない好意的な評価も得て、人気は持続したのだから80年代とはそういう時代ではあった。

しかし、ついに「女子大生アイドル・川島なお美」のキャッチフレーズが消滅する83年の春3月であった。

 

ところが皮肉なことに翌月の83年4月に、フジテレビが女子大生をメインにすえた新番組「オールナイト・フジ」を放送開始。

素人女子大生が大挙して出演し、85年に「おニャン子クラブ」の女子高校生達へその座を奪われるまで、爆発的な最後の女子大生ブームを 巻き起こす。

歴史に「IF(イフ)」は禁物だが、もしもオールナイトフジの開始が3年早ければ、司会は当然のごとく川島に決まりだったろう。

(ちなみに代々現役女子大生に引き継がれた「ミスDJリクエストパレード」も85年に放送終了。85年はまさしく女子大生ブーム終焉の 年だった)

 

ここで、グラビアクィーンとなった川島なお美の実績を振り返ってみよう。

この場合、特に人気の高いアイドルが表紙の座を奪いあったアイドルグラビア誌「GORO」の表紙起用回数がその人気度を測る目安となろ う。

82年 2月 GORO 表紙 

82年 10月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

83年 5月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

84年 1月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

84年 12月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

85年 7月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

85年 12月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

86年 6月 GORO 表紙 (ビッグポスター付録)

 

こうしてみると、大学卒業直後の2年間は、なんとか抜群の知名度と、若手アイドル歌手が躊躇するセミヌードをこなして付録ポスターまで も手中にしていたが、

オールナイトフジがお ニャン子クラブに主役を奪われた85年〜86年を境に彼女も失速したのがわかる。

年齢的なものもあろうが、「女子大生」ブランドを引きずったイメージが、女子大生ブーム終焉と共に足かせとなったのは明らかだ。

87年に写真集を出したのを最後に、このままヒッソリ消えゆくかに思われたが、そこにさらに大きな不幸が彼女を襲う。

 

もともとの女優志願もあり、舞台公演ツアーの配役を獲得した矢先の90年、ロケバス転落で頚椎を骨折する重傷を負ってしまうのである。

全治3ヶ月の治療入院の後に海外へ失意の旅に出て帰国後はそれでも徐々にテレビドラマにも復帰するが、かつての人気は望むべくもなかっ た。

 

しかし、バブル崩壊後の93年、現役トップアイドルで18歳の宮沢りえが91年に先鞭をつけたヘアヌードに、33歳で挑戦し写真集を刊 行。

これがかつて「フルヌードになりそうでならない川島なお美」女子大生当時にファンだった男性層に大きな話題となり、今度は映画でもヌー ドを披露。

その後は立て続けにキワドイ作品に出演し、ついに渡辺淳一の話題作「失楽園」のTV版 (97年)では古谷一行とのファック・シーンを演じて、

一気に全国に波紋を巻き起こした。

ただ単に脱ぐだけではない大胆さ。AVやVシネではなく、キー局の連ドラで。しかもかつての人気No.1女子大生アイドル が......ここまでエロチックにという、

復活効果は絶大であった。これで、忘れ去られていた川島なお美の名前が完全に人々の記憶から呼び醒まされたのである。

 

その一方では、ワインに夢中になり、「私の体はワインでできている」「私の血にはワインが流れている」などの発言をするに及んで、失笑 を通り越して

バッシングの対象となったが、99年にはソムリエ協会のお墨付きを得て、ワイン本まで出すに至った。特に修行中の98年にはエスカレー タで転倒するも

手にしたワインを守って太ももを20針を縫う大怪我を負ったことで、もはやそれも認めざるを得ない肩書きとしていつしか受け入れられる ようになった。

 

こうして脱ぎまくるワイン熟女となった川島なお美ではあったが、常に愛犬シナモンと離れない溺愛ぶりで、もはや結婚する素振りも見せず に、

終身独身貴族の域を目指している。もともとブランド志向の世代ではあるが、最近では輸入車雑誌の表紙も飾り、セレブ女優のイメージ熟成を着々と

図りつつあるが、雑誌編集者に懇願されたとはいえ43歳にしてセーラー服姿を披露(with シナモン)するなど、ズッコケぶりは健在である。

 

自身の名前を命名したワインシリーズ「キュヴェ・ナオミ」をプロデュースしていたが、2004年に芸能生活25周年を記念して売り出し たのは、

シャンパーニュであった。「シャンペンNo.5」デビューから4半世紀。再 びシャンパンで締めるあたり、果たして本人の発案なのだろうか。

 

 

●元祖トレンディ女優 『 浅野 ゆう子 』

 

74年 「とびだせ初恋」 でアイドル歌手デビュー。当時14歳の中学生だったが、ア イドルとしては致命的なまでの背の高さと特別に可愛いとは

言い難い顔立ちから、やたらと背の高さだけが記憶に残る「ああ、あのデカい浅野ゆう子」という不幸なデビューであった。

ところが、中学生ながらに当時抜群の視聴率を誇った大人気番組「太陽にほえろ!」にシンデレラ的なレギュラー獲得の快挙を成し遂げる が、

それでも視聴者の反応は鈍く、わずか1クールで降板となってしまう。

 

そこで歌に専念するが、作曲家筒美京平のディスコ歌謡「セクシー・バス・ストップ」(76年)がスマッシュ・ヒット。清純派アイド ルが多数を占める

当時にあって、中 学を卒業したばかりの浅野にディスコでセクシーというのは冒険だったが、それが杞 憂に終わるほどのスタイルの良さ(75年)ではあった。

しかし、曲のヒットが歌手である浅野の人気に結びつかない。そしてその後に立て続けに出したディスコ歌謡路線も不発に終わる。

歌もダメ、ドラマもダメの窮地に立たされた浅野だったが、17歳高校2年生とは思えない恵まれた肢体(77年)だけはモデル並に輝い ていた。

すると今度は高校卒業時に別方面からチャンスが巡ってきた。

 

今や崖っぷちに立たされているカネボウ化粧品だが、当時は資生堂との頂上対決で派手なキャンペーン合戦を繰り広げていた。

そんな79年の夏、資生堂のコマーシャルからは人気絶頂の世良公則がシャウトする「♪燃えろっ!イイ女〜、燃えろっ!ナツコ〜〜♪」の

ハスキーボイスに乗せて、「ナ ツコの夏」という韻も心地よいキャッチフレーズが飛び込んできた。 

対するカネボウだが、流麗なラテンサウンドに乗せて、「♪チャ〜ンピオ〜〜ン♪」というどこかで聴いたような歌声が........。

焼けた褐色の肢体も眩しく大胆な水着モデルが画面に登場した瞬間、ああ、浅野ゆう子だったのかと、その見事なまでのボディと共に

「一気にこの夏チャンピオン」というナレーションがビシッと決まった。セクシー・バス・ストップから3年、高校を卒業した浅野が

文字通りセクシー・チャンピオンとして見事にテレビ画面に映えた19歳の夏 であった。(曲は「サマー・チャンピオン」

 

が、しかし、それでも以降10年間はテレビ出演こそコンスタントにこなすものの、サスペンス系単発ドラマが続き、いたずらに歳を

重ねていく。そして、唯一の恵まれた武器とも言えるセクシー・ボディも30歳が近づくにつれ、賞味期限切れのリスクがジリジリと

高まりつつあった87年、バブルに高揚する正月に1冊の写真集が発行された。ワンレングスの髪を腰まで垂らした浅野ゆう子が、

手にはM-16ライフルを捧げ、ブラックレザーのハイレグボディスーツに全身を武器で固めた女性コマンドーというコスチューム。

網タイツに包んだ長く美しいロングブーツの両足で、夜の都会の高層ビルの屋上に仁王立ちの「Night on Fire!」である。

ヌードグラビアでは定評のある週刊「プレイボーイ」の創刊20周年記念編集という気合の入ったものだったが、ヘアヌード解禁前の

ましてフルヌードでさえない写真集ながら、発売当初から話題を集め、その人気は今もなお衰えていない完成度の高さであった。

80年代前半を通してドラマには出ていてもブレイクすることのなかった彼女が、20代最後の賭けに出るかのような意気込みさえ感じられ た。

 

通例であれば、ここで彼女の評価は「2時間サスペンスドラマメインの元アイドル歌手が、一発脱いでセクシー話題で生き残りを狙う」とい う

70年代からはもはや不文律となった業界の常識に落ち着くはずだったが、もともとがスタイル抜群でセクシーな水着姿を高校生時代から

存分に見せつけていた浅野だけに、内容の評判の高さとは関係なく、そうしたインパクトは良くも悪くも与えることができなかった。

 

こうして意を決した写真集も男性に圧倒的な人気こそ呼んだものの、それが即座に女優としての評判につながることもなく、

「20代の記念に大変良い物ができましたね」という、痛し痒しの結果となってしまった。

ところが意外や思わぬ方向へ、時代と共に転機が訪れる。

 

本格的なバブル期の到来と共にスタートしたトレンディドラマ「君の瞳をタイホする!」(88年1月〜)レギュラーがそれである。

女性刑事役でシングルマザーという設定が浅野のリアリティーにこそ欠けるが、ラブコメディであったがためにまったく気にならず、

むしろ主役の陣内孝則のヒロイン役であることや、出演者のほとんどがアイドル歌手出身者や同世代で固められていたことや、

舞台も渋谷や青山のロケであったために、同時代を同世代と共に演じることによる番組の開放感やノ リの軽さが、彼女にとっては

非常にラッキーだった。

 

また、「君の瞳を〜」は「ギョーカイ」を代表する「フジテレビ」の「月9」枠であったが、結果的に「月9トレンディ路線のさきがけ」と まで

称されるほどの作品となり、同じく88年7月には「抱きしめたい!」(フジ)で、人気急上昇中の浅野温子との競演が実現

これが今でも語り継がれる「W浅野」誕生の瞬間であり、バブル絶頂期の88年という時代をリアルタイム背景とした、30歳目前の

同世代のオンナ2人が繰り広げる日常が、同時代を生きる女性達に圧倒的な共感を得た。

 

設定された職業がほとんどギョーカイカタカナ商売だったり、住んでいるマンションやインテリアがやたら豪華でオシャレすぎた り........と

バブル期トレンディドラマならではのツッコミどころはあるものの、「あぶない刑事」(86年〜日テレ)でコミカルなはじけキャラが人気 となった

主役の浅野温子の勢いに勝るとも劣らない存在感を発揮することとなった。

 

ベタベタしないサバけた性格で、それでいて可愛いところもあり、コミカルなのにスタイリッシュでファッショナブルという2人の共通点 が、

見事な相乗効果を生み、オンナ同士の友情とイケメン達(岩城晃一、石田純一、本木雅弘)にモテまくりという逆ハーレム状 態など、

同性からの憧れ一杯のドラマとして、バブル期トレンデイ・ドラマの頂点を極めた。

 

そして、その圧倒的人気から、ついには主役として独り立ちを成し遂げたのが、翌89年の「ハートに火をつけて」(フジ)である。

これまた三浦洋一(故人)、柳葉敏郎、風間トオルというトレンディ俳優達に囲まれての、TV制作会社ディレクターという

CXならではのギョーカイ王道路線モノ。

 

コマーシャルの依頼も殺到し、もともとのスタイルの良さに加えて、同性からの支持とファッション性、キャラクター性までが総合評価さ れ、

30歳を迎えた90年にはベストドレッサー賞を受賞。

そしてバブルは崩壊したもののジャンルとして定着したトレンディ・ドラマ出演はもちろん、30代から40代に向けて円熟味を増してゆく 中で

彼女の演技の幅は拡がっていった。それが96年、36歳でついに日本アカデミー賞最優秀主演女優賞という形での栄誉にも輝いた。

尚、この日本アカデミー賞受賞の対象となった主演作品「蔵」(95年)では、川島なお美が偶然にも共演している。

 

浅野が幸運だったのは、アイドル歌手デビューという出自だったにもかかわらず、アイドルという概念からは逸脱していたことによって、

20代後半でヌードになっても、ファンの幻想を裏切るという反発が起こらなかったこと。決してオバサン臭くはない大人らしさが少女時代 から

漂っており、年齢を重ねても「可愛いアイドルが経年変化で崩れてゆく」という醜態からは無縁だったこと。セクシーさを売りにしながら も、

オトコに媚びるそれではなく、恵まれたボディも色気に満ちた「ナイス・バディ」ではなく、むしろモデル体型だったことでイヤラシさをほ とんど

感じさせなかったことなどが挙げられる。

 

それに加えて、決して突っ張ることなくオトコと対等に付き合えるおっとり感と、どこかコミカルな親しみやすさが、80年代トレンディド ラマ特有の

軽〜い空気に見事に合っていたし、20代後半を迎え同世代の男女との絡みもカラ回りすることなく友達感覚で演じられた。

浅野ゆう子に強烈な個性といったものは感じられないし、かといって環境派のようなナチュラル感とも異質な、平和でやんごとなき物質文明

ニッポンの日常をサラリと生きてゆく、ことさらに成り上がり上昇志向もないかわりに貧乏臭さも感じさせない普通らしさが魅力である。

さりげないファッション感覚が受けるのも、彼女自身がバブル期を楽しみながらも決して下品な成金趣味には走らない、JJライクな山の手 感を

そこはかとなく感じさせる、浅野の飾らない自然体なキャラクターとモデル体型なればこその賜物である。

この自然体な姿勢こそが、70年代から21世紀への30年の長きにわたって、サバイバルな芸能界にありながら、低迷を低迷と感じさせ ず、

成功しても強烈な成り上がり根性などを感じさせない、極めて珍しいケースとして作用した。

 

以上、2組の女性達を比較する時、共に結婚失敗という汚点を残しながらも、今や社会運動に我が道を探求する斉藤と、

痛々しさだけを残してフェードアウトする桂木。アイドルとしてはどちらも後味の悪い消え方だった。

一方、今や結婚を標榜せず、共に消費文明を楽しむ欲求に身を委ねる浅野と川島。ファッションとペットに耽溺し、

世の負け犬同世代に不思議な希望を与え続けている。

 

70年代後期の青春路線で輝いた斉藤とも子は80年代に見放され、

80年代初頭のラブコメ路線に弾けた桂木文は80年代の変調に乗り損ね、

80年代前期の女子大生ブームに乗った川島なお美は意外やバブルに不遇を味わい、

80年代後期のバブルに開花した浅野ゆう子は21世紀に何を想うのか......

 

4者4様の芸能人生ではあるが、同郷同学年の彼女達が今後一堂にあいまみえることは永遠にないのであろうか。

 


【おまけ】

2005年11月27日のフジテレビ「新堂本兄弟」に「Hな話、川島なお美だけど涙が出ちゃう…」という
意味深...いや意味不明のサブタイトルでゲスト出演した川島なお美。

好きな男性のタイプを聞かれて即座に、「気は優しくてお金持ち」とリアルに答えるあたり笑えない。

一番好きなファッションは?と聞かれて「セーラー服!」と答え、出演者が引いているのを、
「あら、アタシ似合うのよ」とマジに答えるあたり笑えない。

また、スタジオに愛犬シナモン&ココナツが登場するや、すかさず抱き上げて、舌をからめる
濃厚なディープキスをカメラの前で晒す姿が笑えない。

そして、その姿を見た堂本光一が、「犬を飼ってる女の人は婚期が遅れるって言いますよ」と笑顔で発言すると、
眼をカッと見開いて堂本光一を睨みつける表情が笑えない。

さらに、「シャンペンって呼び方はなんだか変。シャンパーニュって言うのが本当なのよ」と堂本兄弟に
レクチャーした直後、「でも、川島さんのデビュー曲、シャンペンってなってますよ」と堂本兄弟に
突っ込まれて返せない川島なお美が笑えない。

川島なお美45歳、いつまでもそのままで.............

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