堺屋太一の明日はどっちだ




1970年の大阪万博や復帰後間もない1975年の沖縄海洋博で名を上げ、1976年には著書「団塊の世代」でも注目を浴びた名物官僚の堺屋太一が、

1978年に官庁を勇退し、1985年に提唱した「知価革命」では規格大量生産型高度成長社会から知財ソフトウェア型付加価値経済社会への意識転換を説いたが、

その堺屋が翌1986年に知価革命への心得として著した書「三創三脱」の“あとがき”は、以下のような書き出しで始まっている。



今、日本はひじょうに幸せな状況にある。経済は長かった高度成長と70年代以降の努力の結果、きわめて良好な状態にある。成長率は低下したとはいえ、

円高不況の今も年率3%程度は期待できそうだし、物価は著しく安定、今年などは円高と輸入資源の値下がりで卸売り物価で10%以上、小売物価も1%強の低下になりそうだ。

何よりも幸せなことは、失業率が引き続き2%台という超完全雇用にあることだ。かつてアメリカでは、物価の上昇率と失業率の合計を「不幸指数」と呼んだ政治家がいたが、

それを信じるならば、日本はこの30年間、世界で最も不幸指数の低い国、つまり幸せな国だったことになる。そして、その日本でも、今年は最も幸せな状態にある。

経済ばかりではない。社会の安定という点でも日本に優る国は見当たらない。(中略)所得や財産の面での平等も最も進んでいるし、犯罪率はいたって低い

深夜女性が一人歩きしても心配のない数少ない国の一つである。(後略)」



上記が、昭和35年から国家官僚として(1986年当時は政府税制調査会委員として民間から国政に関与)日本の姿を25年間にわたって見てきた堺屋の、1986年時点における

偽らざる感想だったわけだが、これをまるで逆さまに(世界同時不況、リストラ常態化、フリーターとホームレスの激増、自殺率最悪、所得格差拡大、通り魔、親族殺人横行、

犯罪検挙率最悪)したのが、今、我々が生きている平成20年、2008年現在の日本の姿である。



この「三創三脱」で日本人の意識改革を促した堺屋だったが、皮肉なことに知価革命への備えもそこそこに、我々はこの1986年に空前のバブル経済へと突入していった。

一方、80年代の堺屋と言えば、世間の喧騒を横目にすっかり歴史作家生活に没入していた。


「巨いなる企て」(1980年)で石田三成を、「峠の群像」(1981年)で大石内蔵助を(1982年のNHK大河ドラマ原作となる)、そして後にNHK大河ドラマで大ヒットとなる「秀吉」の原作

「豊臣秀長~ある補佐役の生涯」(1985年)、「鬼と人と~信長と光秀~」(1989年)など、中高年向けにはお約束の、武将を通じて企業社会を考える温故知新小説を次々に生み出した。


そしてバブルが完全に崩壊した1992年以降、戦後高度成長経済のピークから転落する景気後退局面に入った日本を見つめる堺屋の著書は、一転して

「平成不況に克つ手」(1993年)、「嫌われる日本人」(1994年訳書)、「『大変』な時代」(1995年)、「俯き加減の男の肖像」(1995年)、「『次』はこうなる」(1997年) など暗転する。



そこに追い討ちをかけるがごとき阪神・淡路大震災とオウム真理教によるテロ、さらには相次ぐメガバンクの破綻と金融危機、貸し渋りの大旋風で、倒産列島と化したニッポンは

1998年には戦後最悪の経済状況を招来する。ここでいよいよ堺屋は経済企画庁のトップたる長官として、小渕内閣によってカムバック登用されるが、抜本的な

構造改革や再復興のめどが立たぬまま、平成不況は遂にデフレ局面へ。

堺屋は日本国の経済企画を預かるトップとして「日本列島総不況」という公式表明をせざるを得なかった。


だがそこに、幻惑の一陣の風が吹く。いわゆる「ITバブル」である。

悲願の景気浮揚策として、アメリカのニュー・エコノミーに倣ったIT振興策を掲げ、堺屋は「インターネット博覧会」(通称:インパク)構想を提起。

すると愚かしくも可笑しくも、ベンチャー・キャピタル・マネーが、頭に「e-」だの尻に「ネット」だのと付くだけで、ロクな査定も無いままに、ほとんど投機的なIPOを煽り、

これが80年代バブル崩壊が招いた超就職氷河期の直接的な被害者として悶々とした日々を過ごしていた、いわゆる団塊ジュニア層を、「なんちゃってITベンチャー社長」

ブームに駆り立て、さらにはそうした勘違いお坊ちゃま達を餌食に赤子の手を捻るように操る裏社会の輩(やから)が、新興市場を舞台に暗躍する。


そんな、プチITバブルも2000年には早くもピークを迎えるが、堺屋はそのあまりに短命で終息したプチITバブルを目の当たりにし、また小渕総理がITバブル崩壊の道連れに

なるかのように脳梗塞で急死すると、年内一杯で後継の森“イット革命”喜朗内閣での長官職を辞し、翌2001年、今度はかつて自らが活躍した1970年の大阪国際万博から

35年ぶりの日本での国際万博となる、2005年開催が決まった愛知万博の最高顧問職に就く。「ミスター万博」の堺屋にとって、これが最期の花道になるかと思われたが、

地元との方向性を巡る確執から早々に辞任へと追い込まれてしまう。しかし、その後も愛知万博開催直前の2004年まで、小泉総理のもとで内閣特別顧問職にとどまった。



だが、2001年に愛知万博のトップからはずれるや、80年代末までの戦後日本の栄光の軌跡を検証、翻って90年以降に続く日本滅亡への危機感と、それを救うべく国民が

目指すべき社会への処方箋的著書を量産する。

「日本の盛衰」(2002年)、「『平成三十年』への警告」(2002年)、「日本の危機と希望」(2003年)、「救国12の提言」(2003年)などなど、なんだかかつてのベスト&ロングセラー

「ノストラダムス」シリーズの様相を呈してきた堺屋太一であった(苦笑)

あと15年もすれば日本国家破綻というカウントダウン商法は警世のための方策と言えなくもないが、平成30年と言えば日本人男性の平均寿命が仮に伸びるにせよ、堺屋は

それを待たずに、あの世へと召されている確率が高いはずであるから、遺される世代への遺書と言うべきものであろう。


ところが、皮肉なことに2002年からは日本の景況は持ち直し始め、少なくともマクロ的には景気回復基調という数値を示し始めた。2005年以降、堺屋の著書にも切迫した

トーンは影をひそめてゆく。

「団塊の世代『黄金の十年』が始まる」(2005年)、「これからの十年 日本大好機」(2007年)という具合である(苦笑)




だが、「痛みに耐えて頑張ろう」と国民を鼓舞した小泉首相が、返す刀で「格差が悪いとは思わない」と、庶民生活レベルにおいては実感なき景気回復どころか、

じわじわと生活レベルが低下してゆく窮状と、企業業績回復の一方で、先の見えないワーキングプアの生活苦不安はむしろ増大していった。


そして、その小泉成長路線が、安倍政権、福田政権とバトンリレーによって迷走し始めるや、ついに2008年、「百年に一度」と麻生政権も明言する、世界同時金融危機が発生。

東証株価は急落し1990年のバブル崩壊後最安値を付け、日本の上場企業の倒産件数が戦後最悪を記録、インパクや愛知万博では我が世の春を謳歌していた日本一企業の

トヨタ自動車さえもが対前年比営業利益73%減という激震が走り始めているのはご承知の通りである。


ここ数年は企業のリストラによる景況改善と、堺屋が名付けた「団塊世代」の定年退職をにらんで新卒採用も売り手市場となっていたが、一転して内定取り消しが続出するなど、

またしても景気に翻弄される学生達への就職氷河期到来が懸念されている。

現在、「ゆとり世代」などと呼ばれている大学は選びさえしなければ全入という恵まれた高校生達も、5年後には果たして就職がどうなっているのかわかったものではない。


団塊世代も、90年代の早期退職勧告リストラで粛清という災厄を切り抜けた生き残りが、ようやく定年ゴールと思いきや、会社が突如打ち出した技能継承名目の定年延長によって、

給与水準はアルバイト学生以下に落とされる上での再雇用で、結局は年金支給先送り&減額を余儀なくされ、世界最長寿国ならではの長い老後に貯蓄は徐々に減り始め、

おまけに非正規社員のアラサーの子供を抱え、麻生政権が「全治3年」いやそれ以上に長期化も見込まれるとするこの大不況に、さらにはアメリカCIAを含む情報分析機関が

主要国の2025年(平成37年)の国力予想を発表したが、日本は経済力において中国・インドに抜かれて4位に転落、経済成長の維持は極めて困難というご宣託が下った。


平成30年の日本国の危機を予想してみせた堺屋だが、この未曾有の経済危機と少子高齢化が招くであろう日本国の衰亡に、今度はどんな処方箋を示してくれるのであろうか。








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