90年代初頭のバブル後夜祭
折口雅博と飯島愛の、バブル崩壊、愛の流刑地
男女の性愛を描かせたらこの人の右に出る者無しのヒットメーカー渡辺淳一先生の
大ヒット作「愛の流刑地」(愛ルケ)が、映画化されて2007年1月に封切られた。
主演は豊川悦司(1962年生まれ)と寺島しのぶ(1972年生まれ)。
主人公の年齢設定を敢えて原作(55歳)から10歳若返らせた映画版は、その2007年に
去就が注目を浴びた2人の男女、折口雅博(1961年生まれ)と飯島愛(1972年生まれ)の年齢に
偶然にも重ね合う。
あの「ジュリアナ東京を作った男」として、あまりにも有名な折口雅博が、
2007年、老人介護ビジネス「コムスン」の不正請求であえなく堕ちた偶像となるまで、
戦後最悪の不況期と言われたバブル崩壊直後から2000年代前半を這い上がりながら、
やがて経団連理事(2004年)就任、紫綬褒章(2005年)授与という栄光の青年起業家として
グッドウィル・グループを率い、それでもその不況期に六本木に「ヴェルファーレ」を
オープンさせるなど、あくまでバブリーな姿勢は、その老人介護ビジネスにおいても、
億ションならぬ入居金3億円で話題を呼んだ「バーリントンハウス馬事公苑」(2006年)
に代表される富裕層にフォーカス。
一方で奴隷並と言われるコムスン介護員の雇用環境と、不正請求をしてまで小金を積
み上げる金の亡者ぶりや、
バブル崩壊後の就職氷河期突入にフリーターの激増を察知して、日雇い派遣のグッドウィルを創業(1995年)するなど、
格差社会の到来を見越した、ある意味卓抜したビジネス感覚と経営戦略を有した企業家で
はあったと言えよう。
このバブルの寵児、折口が総合商社の故・日商岩井に就職したのがバブルへと向かうプラザ合意の85年。
やがてバブルが絶頂へと向かい、突如崩壊の90年に構想されたジュリアナ東京は、翌1991年にオープンするも、
バブル崩壊をまだ現実把握しきれなかったバブリーなヤング・サラリーマンやOLにバカ受けし、ウォーター・フロントという
ロケーションが醸し出すバブルの余韻に連夜の後夜祭を繰り広げ、芸能人やAV女優、その予備軍など、バブル崩壊直後の
90年代初頭に極致を見た痴態の限りを象徴する、まさにバブルの伊勢神宮と
も言うべき、「おかげ参りじゃ、ええじゃないか」の
お札が空から降ってくる庶民の神事が現代に蘇った。
(「君たち、バブルの時は万札が空から降ってきたんだよ」と、平成大不況の90年代後半に深夜番組「ワンダフル」で、
バブル未知世代のワンギャル相手に熱弁した、ジュリアナ当時は22歳だった東幹久)
もちろんジュリアナ詣にはジュリ扇が欠かせない、ワンレンボディコンの巫女さん達が大漁もとい大量発生。
折口は「ゆりかごから墓場まで」ならぬ、お立ち台でパンツを見せていた散財好きなオ姐チャンから、
介護ベッドでオムツを見せるであろう認知症のオ婆チャンまで、機を見るに敏な、希代の経営者である。
映画「バブルへGO!」で、マハラジャのお立ち台で踊る飯島愛(90年当時18歳)が典型の、
水商売女性のボディコン露出度が一般OLにまで波及した当時は、アイドルの虚像を完全に崩壊させた
85年のおニャン子クラブ旋風から解散の87年を引き継ぐ、バブル全盛期以降の、性風俗嬢から一般OLへの境界線
までもが消失しかけた状況を生んでいた。
その象徴として、90年以降に何でもアリの無法地帯と化したのがテレビであった。
飯
島愛が「Tバックの愛ちゃん」としてレギュラー出演の「ギルガメッシュないと」がジュリアナ開店と同じ91年に放映スタート。
AV女優総出演の観があった同番組は、深夜のオカズ番組であることを標榜。
もはや「大人の〜」「エロスの〜」といった枕詞など不要な、身もフタもない即物的な企画が氾濫することとなったのは、
既に84年の「オールナイト・フジ」を筆頭とする「海賊ちゃんねる」など各局がエスカレートした、バブル直前期にも
見られた現象だったが、いわゆる業界ノリの深夜番組バラエティから単なる性風俗誌のテレビ版に変貌した(アダルト
ビデオのレンタル普及が完了したバブル期以降という社会事情からも)過激さは、視聴者のモラルを麻痺させるのに充分だった。
例えば、当時人気急上昇中で新婚のダウンタウン浜田が写真週刊誌にフォーカスされちゃった、森田圭子との密会(90年)では、
その森田が堂々とテレビ出演。
森田はバブル絶頂期の1989年には大銀行の故・第一勧業銀行の現役OLだったが、翌年にはあっさり職を捨ててAV女優に
とらばーゆ。
一般人だった普通のOLが、一夜にしてAV女優デビューし、人気芸能人と不倫の末に、その顛末をあっけらかんと土曜の昼間に
語り出す姿は、番組(関西テレビ「ノックは無用」)司会が「エロだこ」故・横山ノックと、タブーなき上岡龍太郎ではあったにせよ、
昼ごはん時のお茶の間に、ワンレンボディコン姿でアダルトビデオの収録現場の様子を微細に説明し、
「ワイセツ十字軍」だの
「潮吹きバズーカ」だのとタイトルを挙げる様子は、よくよく考えれば異常なのだが、それすらもなんとも感じない空気が支配的
だったのがバブル期である。
そして、その浜田が懲りずにヤンチャぶりを発揮し、さらには比較的良い子的な立ち位置だったウンナンまでもが餌食となった
「平
成教育テレビ」(フジ)では、風俗嬢から転進した飯島愛はもちろん、現
役風俗嬢やその境界予備軍も大挙出演しての、
放
送倫理基準もなんのその、欲望の赴くままに公共電波が全国を駆け巡った。(1992年7月18日放送)
そして、ギルガメも放送100回を迎えた1993年、Tバックをブラウン管に見せ続けた飯島愛が、
勢いで歌手デビューの
「ナイショDEアイ!アイ!」は、そのプロモビデオをなんと自衛隊基地での公認ロケで自衛隊員も
参加しての制作となったが、
これ以降、飯島はAV嬢だった過去を暗黙の了解として封印し、メジャー・タレントへの道を歩
み始める。
それと時を同じくしてジュリアナ東京はかつての勢いを失い、翌94年には遂に閉店となった。
バブル崩壊は、もう誰の目にも明らかであり、その後の大不況が日本列島に襲いかかるが、少年期に貧しくして自衛隊に身を置き、
刻苦勉励、防衛大学校を卒業した過去を持つ折口(卒業後は任官拒否)も、気分は飯島愛と踊りに興じた末端自衛官達と同じく、
ヴェルファーレにバブル永遠なれと、その余韻を追い求めていたのであろう。
だが、2007年、飯島愛は未だ謎を呼ぶ突然の芸能界引退を決意し、折口もまた、自らの監督不祥事から経団連理事退任を
余儀なくされた。(折口の没落を暗示するかのように2007年元旦にヴェルファーレは閉店していた)
赤貧から成り上がった折口雅博と、AV嬢から好感度タレントに成り上がった飯島愛の2人が揃って退場した2007年、
不遇期を経て90年代初頭に成功への糸口をつかんだ2人が、大不況期すらも乗り越えて頂点を極めたサクセス・ストーリーは、
景気好転と言われる今、皮肉にもバブル期の余韻を引きずり続けた清算事例として記憶されるばかりである。
“雀百まで踊
り忘れず”
“ボディコン百までジュリアナ忘れず”
今年、2008年9月6日、遂にあの「ジュリアナ東京」が一夜限りの復活となりました。
(建造物は今や跡形も無いため、湾岸つながりで「ディファ有明」が会場となりました)
※当時のジュリアナ入り口 と DJブースから見たフロア内部※
そして、その仕掛人は、今年設立20周年を迎えたエイベックスです。
20年前と言えば1988年、まさにバブル絶頂期に生まれた新興レーベルであり、
ユーロビートでバカ当たりの出自ゆえ、ジュリアナ入場券付きCDの発売も、
当時は違和感無く「ダンスミュージックと言えばエイベックス」の観がありました。
ジュリアナの建設計画は、このバブル期の勢い(90年をピークに崩壊)に乗って進み、
翌91年にオープンしましたが、バブル崩壊後夜祭はわずか3年でその宴を終えます。
しかし、そこで夜毎お立ち台に立ち、ワンレン振り乱し、ジュリ扇片手に
ボディコンで乱舞していたのが、当時はまだ20歳そこそこの荒木師匠であり、
グラビアアイドルグループ「C.C.ガールズ」(初代)のバブル青田こと青田典子です。
そして当然ながら、このイベントに彼女達は招待されますが、ハイテンションは当時をキープしつつも、
プロポーションはキープできないことがボディコンならではの宿命として、20年の時を経た下腹部に、
加齢なるボディコン嬢の現実を晒すこととなりました。
また、DJにはお約束のジョン・ロビンソンが参上。と、ここまでは荒木師匠・バブル青田・ジョンロビの
3点セットでしたが、当時のボディコン・ギャル(死語)達はもはや「アラフォー」です。
そこで当時はまだ小学校新入生か幼稚園児かといった、現在20代の女子達が、記憶の彼方に残るバブルの 残像を追体験すべく、
このワンナイト・イベントに少数ながらも参集しました。
日本の民族衣装だった時期もある「ボディコン」レンタルや、ショッキング・ピンクやドぎつい紫といったエロ かわいい「ジュリ扇」を購入しての参戦に、
お母さんの浴衣を借りて夏祭りに繰り出す女の子といった甘酸っぱい風情を感じてしまうのは、日本人ならではの叙情性なのでしょうか。
しかし、「バブルを知らない子供達」だった彼女らは、あのデス・テクノの代表曲にしてジュリアナ定番の
「James
Brown is Dead」(1992年)に踊り狂う、青田典子と荒木師匠のアラフォー・バツイチコンビの痛い姿に
果たして何を見たのでしょうか。
それでも、当時はバブル入社組新人OLとして、また、3高男性をゲットして「コマダム」と言われたアラフォー世代は、
l
バブルの郷愁に永遠に身も心も浸すことができるだけ幸せなのかもしれません。
荒木師匠もバブル青田も、共に百歳を迎えた時には、金と銀のボディコンを贈られて、老人ホームの介護士相手に、
お立ち台ならぬベッドの上で恍惚の表情を浮かべながら、ジュリ扇を振っていることでしょう。
一方、そのバブル崩壊から「失われた10年」と言われた90年代を経て、ようやく復興の兆しなどと言われた近年ですら、
今度は我が国の首相をして「百年に一度の金融危機」だの「全治3年」だのと言わざるを得ない、この2008年ドン底
ニッポン経済に、フリーターやニート男子に囲まれて、まだまだ20代の青春を過ごさなければならない女子達には、
ジュリアナもボディコンも一夜限りの幻でしかないのですから。
そして、今回ジュリアナ復活を実現したエイベックスが、年内に続けて「ツインスター」、「ヴェルファーレ」といった
90年代ディスコの復活シリーズを予定していますが、そのファイナルとして
来年2009年1月30日には六本木のキンクイにて、
あの「マハラジャ」を復活させます。
マハラジャ麻布十番は、むしろ80年代バブル突入期に全盛を誇った、ハイエ
ナジーとお立ち台の聖地として、
80年代後半バブル隆盛のブラック&ゴールド(黒服と黄金)で哀愁のイタロ・ユーロ(死語)な、現在40代の80年代バブル期には20代
の、
六本木でブイブイ言わせていた(死語)レオンやニキータには涙で前が見えない一夜となりそうです。。